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原始・古代

奈良時代の家の歴史と特徴を知る! 

奈良時代の家の歴史と特徴を知る!  原始・古代
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奈良時代(710年~794年)は、日本史上初めて都城制を導入した時代です。
都城制とは、中国の唐の影響を受けて、国土を都と諸国に分け、都には天皇や貴族、官僚が住み、諸国には地方の豪族や農民が住むようにした制度です。
都城制のもとで、奈良時代の家は大きく二つのタイプに分けられます。
一つは都にある宮殿や寺院、貴族の邸宅などの公的な建築物で、もう一つは諸国にある農村や郡衙(ぐんが)、寺院などの民間の建築物です。
これらの家はそれぞれ異なる特徴や種類を持っていました。

奈良時代の家の建築技術

奈良時代の家を建てるために用いられた技術や材料は、主に中国や朝鮮半島から伝えられたものでした。
公的な建築物では、柱や梁(はり)、桁(けた)などの木材を組み合わせて枠組みを作り、屋根には瓦や茅(かや)を葺(ふ)きました。
壁には土や木簡(もっかん)、板などを用いて塗り込めたり、障子(しょうじ)や格子(こうし)を設けたりしました。
床には畳や敷物を敷きました。
このような建築様式は、寝殿造(しんでんづくり)と呼ばれます。
寝殿造は、中央に正殿(しょうでん)と呼ばれる主要な建物があり、その周囲に左右対称に庇(ひさし)や廊下でつながった副殿(ふくでん)や附属(ふぞく)と呼ばれる付属の建物が配置されるという特徴があります。
寝殿造は、平安時代に入っても引き継がれました。

民間の建築物では、柱穴(はしあな)と呼ばれる穴を地面に掘って柱を立て、その上に屋根を乗せるという簡素な方法で家を建てました。
屋根には茅や草を葺きました。
壁には土や木簡、板などを用いましたが、隙間が多く風通しが良かったです。
床は土間でしたが、高床式(こうしょうしき)と呼ばれる床を高くしたタイプもありました。
このような建築様式は、掘立柱(ほりたてばしら)造と呼ばれます。
掘立柱造は、古墳時代から続いていた伝統的な日本の建築様式です。

奈良時代の家の生活文化

奈良時代の家で行われた生活や儀式、風習などは、公的な建築物と民間の建築物では大きく異なりました。
公的な建築物では、天皇や貴族、官僚などが住み、政治や文化の中心地でした。
天皇は正殿で即位や元服(げんぷく)、冊封(さっぽう)などの重要な儀式を行いました。
貴族は副殿や附属で日常の生活を送り、宴会や詩歌、音楽、舞踊などの娯楽を楽しみました。
官僚は政務や法律、外交などの仕事を行いました。
寺院では、僧侶が仏教の教えや経典を学び、礼拝や法会(ほうえ)、写経(しゃきょう)などの宗教的な活動を行いました。

民間の建築物では、農民や豪族、郡司(ぐんじ)などが住み、農業や手工業、商業などの生産活動を行いました。
農民は稲作や畑作、畜産などを行い、年貢(ねんぐ)や雑役(ざつえき)と呼ばれる税や労役を納めました。
豪族は地方の有力者として、農民を統率し、郡司と協力して国司(こくし)と呼ばれる中央から派遣された役人と対応しました。
郡司は郡衙と呼ばれる役所に住み、国司の補佐や地方の統治を行いました。
寺院では、僧侶だけでなく、俗人(ぞくにん)と呼ばれる一般の人々も住み、仏教に帰依(きえ)したり、寺領(じりょう)と呼ばれる土地を耕作したりしました。
奈良時代の家では、神道や仏教に基づく祭祀(さいし)や祈祷(きとう)、供養(くよう)などの信仰的な行為も行われました。

奈良時代の家の遺跡や保存状況

奈良時代の家が残された遺跡や保存されている例は、公的な建築物と民間の建築物では異なります。
公的な建築物では、奈良時代に都として栄えた平城京(へいじょうきょう)や長岡京(ながおかきょう)、桓武天皇が造営した平安京(へいあんきょう)などの遺跡が発掘されています。
これらの遺跡では、宮殿や寺院、貴族の邸宅などの基礎や柱穴が見つかっています。
また、奈良時代に建てられた寺院の中には、現存するものもあります。
例えば、東大寺(とうだいじ)や法隆寺(ほうりゅうじ)、唐招提寺(とうしょうだいじ)などです。
これらの寺院では、奈良時代に建てられた本堂や金堂(こんどう)、五重塔(ごじゅうのとう)などが保存されています。

民間の建築物では、農村や郡衙などの遺跡が発掘されています。
これらの遺跡では、掘立柱造の家屋跡や土器・石器・金属器・木製品・織物・漆器・骨角などの遺物が見つかっています。
また、奈良時代に建てられた民家の中には、現存するものもあります。
例えば、奈良県の平群町(へぐりちょう)にある平群王家(へぐりおうけ)や、京都府の亀岡市(かめおかし)にある亀岡市立歴史民俗資料館(かめおかしりつれきしみんぞくしりょうかん)などです。
これらの民家では、掘立柱造の建物や茅葺き屋根、土間や高床式などが保存されています。

奈良時代の家の現代への影響や意義

奈良時代の家が現代の建築や文化に与えた影響や意義は、大きく二つに分けられます。
一つは、日本独自の建築様式や技術の発展に寄与したことです。
奈良時代には、中国や朝鮮半島から伝わった建築様式や技術を取り入れながら、日本の気候や地形、生活習慣に合わせて改良や創造が行われました。
例えば、寝殿造は、中国の宮殿建築を参考にしながら、日本の風土に適した庇や廊下を加えたり、屋根を高くしたりするなどして発展しました。
掘立柱造は、日本古来の建築様式を継承しながら、柱穴の形や深さを変えたり、屋根の形や葺き方を工夫したりするなどして進化しました。
これらの建築様式や技術は、後の時代にも引き継がれていきました。

もう一つは、日本の歴史や文化を知る上で貴重な資料となっていることです。
奈良時代は、日本最初の統一国家である大和朝廷(やまとちょうてい)が成立し、仏教や漢字・文学・法律・芸術などが盛んになった時代です。
奈良時代の家は、当時の政治や社会・経済・宗教・文化などを反映しています。
例えば、宮殿や寺院は、天皇や貴族・官僚・僧侶などが行った政治的・文化的・宗教的な活動を示しています。
民家は、農民や豪族・郡司などが行った生産活動や信仰活動を示しています。
奈良時代の家から見つかった遺物は、当時の生活用品や工芸品・装飾品・武器などを示しています。
これらの資料は、奈良時代の歴史や文化を理解する上で欠かせません。

まとめ

この記事では、奈良時代の家について紹介しました。
奈良時代の家は、公的な建築物と民間の建築物では大きく異なりました。
公的な建築物では、寝殿造と呼ばれる華麗で複雑な建築様式が用いられました。
民間の建築物では、掘立柱造と呼ばれる簡素で伝統的な建築様式が用いられました。
奈良時代の家は、当時の生活や儀式、風習などを反映しています。
また、奈良時代の家は、日本独自の建築様式や技術の発展に寄与しました。
さらに、奈良時代の家は、日本の歴史や文化を知る上で貴重な資料となっています。
奈良時代の家は、日本の建築や文化の源流とも言えるものです。