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中世・近世

室町時代の建築物の特徴と歴史

室町時代の建築物の特徴と歴史 中世・近世
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室町時代は、日本の歴史の中でも文化が発展した時代です。
その中でも、建築物には様々な変化が見られました。
特に、武家の住宅である書院造は、日本独自の和室の原型となりました。
この記事では、室町時代の建築物の特徴と歴史について紹介します。

書院造とは

書院造の特徴

書院造とは、室町時代から近世初頭にかけて成立した住宅の様式で、書院を建物の中心にした武家住宅の形式のことです。
書院とは、書斎を兼ねた居間の中国風の呼称で、畳を敷いた二畳程度の小スペースに書見のための造りつけの机を置き、その正面には明かり採りの窓「書院窓」を開け、傍らには書物や硯を置く棚も設けられたものです。

書院造は、平安時代の貴族の住宅様式「寝殿造」を元に、中世末期以降に始まり近世初頭に大いに発展完成した「書院」を主室に持つ武家の住宅様式です。
寝殿造では十分でなかった間仕切りが書院造では大いに発達し、引き違いの建具によって分けられた畳を敷き詰めた室(座敷)が連なり、その室の床には高低差が付けられ、一段高い主室を上段、ときには上々段と呼び、低い室を下段と呼び席による階級差を明瞭に示すようになりました。

主室には、書院、押し板、棚、納戸構(帳台構・武者隠し)が設けられ、それらの壁には淡彩や濃彩の障屏画が描かれ上段に座す高位者を荘厳しました。
主室に必ずある「書院」とは本来書斎の意で、畳を敷いた二畳程度の小スペースに書見のための造りつけの机を置きその正面には南に向けて明かり採りの窓「書院窓」を開け、傍らには書物や硯を置く棚も設けられたものです。
後にこの書院は、物飾りのスペースであった押し板と一体化して座敷の「床の間」となり、書院窓も書見という目的から離れて床の間の明かり採りとなり、「付書院」と呼ばれるようになりました。

連なる各室を仕切るのは引き違いの建具「襖」でありここにもしばしば障屏画が描かれました。
寝殿造では円柱であった柱がここでは面取り角柱となりその面取りも時代とともに小さくなりました。
外回りでは舞良戸を多用しそれに併置して明かり障子が設けられました。
連なった室の南側には畳を敷いた廊下である「入り側」が設けられさらにその外側には濡れ縁である「落ち縁」が設けられました。
桃山時代頃には「雨戸」も発明され半戸外であった入り側も室内空間に取り込まれるようになりました。
寝殿造の中門廊は簡略化されて「中門」となり、ときに南庭に突き出たテラス、あるいは車寄せ、玄関へと変化を遂げました。

以上に述べた書院造の説明に、「座敷」、「床の間」、付書院、棚、角柱、襖、障子、雨戸、縁側、玄関という現代和風住宅を特徴付けるすべての要素が認められます。

書院造の特徴は、以下のようにまとめることができます。

・書院を主室とする武家住宅の形式である。
・畳を敷き詰めた座敷が連なり、高低差によって席次を示す。
・主室には書院、押し板、棚、納戸構などがあり、壁や建具に障屏画が描かれる。
・柱は面取り角柱であり、建具は引き違い式の襖や障子などが多用される。
・南側に入り側や落ち縁があり、中門や玄関などが設けられる。
・床の間や付書院などの和室の原型となる要素が多く含まれる。

室町時代の代表的な建築物

書院造の代表的な例としては、以下のようなものが挙げられます。

金閣寺

足利義満が北山文化を代表する別荘として建立したのが金閣寺です。
この寺は、北山鹿苑寺(ほくざんろくおんじ)という正式名称を持ちますが、舎利殿(金閣)の名で広く知られています。
舎利殿は木造三層建ての建物で、住宅と仏堂の様式を併用・統合した各階が異なる建築様式を採用しています。

一層は法水院(ほうすいいん)と呼ばれ、西側には船着場と池に突き出した漱清(そうせい)を持つ寝殿造の阿弥陀堂です。
二層は潮音洞(ちょうおんどう)と呼ばれる書院造の観音堂です。
三層は究竟頂(くっきょうちょう)と呼ばれる禅宗様の仏間となっています。
外壁に金箔を施した金閣は、水面に映える華やかな美しさを見せます。

銀閣寺

足利義政が東山文化の拠点として建立したのが銀閣寺です。
この寺は、東山慈照寺(とうざんじしょうじ)という正式名称を持ちますが、観音殿(銀閣)の名で広く知られています。
観音殿は木造二層建ての建物で、下層は書院造、上層は禅宗様という異なる様式を組み合わせています。
金閣寺と比べると、銀閣は銀箔を貼ったわけではなく木造のままであり、質素な美しさを感じさせます。

また、境内にある東求堂(とうぐどう)には同仁斎(どうじんさい)という部屋があります。
これは日本で最初に作られた4畳半の空間で、北側の右側に一間の付書院(つけしょいん)と、左側に半間の違棚(ちがいだな)が備えられています。
付書院は机の代わりに使われ、違棚は物を収納する場所として機能していました。
同仁斎は住宅遺構として最も古いものであり、書院造が完成する前の日本の住まいの姿を伝える貴重な建物です。

二条城

二条城は、徳川家康が京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所として建てた城です。
正式には元離宮二条城(もとりきゅうにじょうじょう)と言います。

この城には、徳川家光の代に築いた二の丸御殿という6棟からなる建物があります。
二の丸御殿は江戸初期に完成した住宅様式である書院造の代表例として、日本建築史において貴重な遺産です。
特に大広間の一の間と二の間は、二の丸御殿の中で最も格式高い部屋で、金碧濃彩の障壁画で飾られた豪華な部屋となっています。
一の間には、書院造の特徴である床の間や違棚、付書院、帳台構が備わっています。
大広間は将軍が天皇や大名と対面する場所で、書院造の礼法が最も洗練された空間です。
席次や格式は厳しく定められており、書院造の礼法が最も洗練された例と言えます。

室町時代の建築物とその背景

室町時代は、日本の歴史の中でも特に文化が発展した時代です。
その背景には以下のような要因があります。

足利幕府の成立

足利幕府の成立によって、武家の権力が強まり、武家文化が発展しました。
また、室町時代には、南北朝時代から続いた戦乱が終息し、平和な時代が訪れました。
このような背景の中で、文化や芸術が発展し、建築物にも様々な変化が見られるようになりました。

室町幕府の成立

室町時代は、1336年に足利尊氏が鎌倉幕府を倒して建てた足利幕府が始まった時代です。
足利幕府は、京都に幕府を置き、天皇や公家とも協調しながら政治を行いました。
足利幕府は、15代約240年にわたって続きましたが、その間には南北朝の内乱や応仁の乱などの混乱もありました。
しかし、それらの戦乱を乗り越えて、足利幕府は日本の統一と安定を図りました。

武家文化の発展

室町時代は、武家の文化が発展した時代です。
武家は、中国や朝鮮との交流を通じて、文化や芸術を取り入れました。
特に、足利尊氏の孫である足利義満やその子孫である足利義政は、文化人としても知られており、金閣寺や銀閣寺などの建築物を建てたり、能や茶道などの芸能や茶道を奨励したりしました。
また、武家は、禅宗や浄土真宗などの仏教とも関わりを深めました。
これらの文化や芸術は、武家の権威や格式を表現するとともに、日本独自の美意識や精神性を育みました。

平和な時代の到来

室町時代は、南北朝時代から続いた戦乱が終息し、平和な時代が訪れた時代でもあります。
特に、1477年に応仁の乱が終わってから1573年に織田信長が足利幕府を滅ぼすまでの約100年間は、「戦国時代」と呼ばれる一方で、「安土桃山時代」とも呼ばれる平和な時代でもありました。
この時期には、各地の大名たちが自分たちの領土を拡大しようと争いましたが、それと同時に自分たちの領土内では治安や経済を整備しました。
また、この時期には、ヨーロッパからキリスト教や鉄砲などが伝えられるなど、日本と外国との交流も活発になりました。

まとめ

室町時代の書院造は、日本独自の和室の原型となった建築様式です。
書院を主室とし、畳を敷き詰めた座敷を高低差で区切り、壁や建具に障屏画を描くなど、武家の権威や格式を表現しました。
金閣寺や銀閣寺、二条城などの名建築は、書院造の特徴をよく示しています。
書院造は、日本の住宅文化に大きな影響を与えた歴史的な建築様式といえるでしょう。